破竹の快進撃

1966年5月、プロトタイプがトヨタ自工の手によって第3回日本グランプリへと送り込まれ、デビュー戦にして3位入賞を果たす。


この日本グランプリを皮切りに、トヨタ2000GTは精力的に耐久レースを消化していました。


次の鈴鹿1000㎞レースでは、早くも1・2フィニッシュを飾り、翌年の鈴鹿500㎞でも優勝、さらに富士24時間レースでも1、2位を独占と、破竹の快進撃を続けたのです。


サーキットだけではなく、谷田部の自動車高速試験場でのスピード・トライアルにも挑戦しました。


こういった歴史があって、今の中古車検索があるんですね。

信頼性と耐久性

トヨタ2000GTがベールを脱いだのは、1965年(昭和40年)10月に開催された第12回東京モーターショーです。


その流麗なスタイリングは、これまでの日本のクルマにはない、ミツオカ 中古車のように洗練されたものでした。


ロングノーズ&ショートデッキの低いボディ、さらにはリトラクタブル・ヘッドランプを配したフロントビュー、高性能を予感させる24の6気筒DOHCユニット・・・。


そのすべてが憧れの的であるヨーロピアン・スポーツを超えていました。


だが、トヨタは、この本格グラン・ツーリスモをすぐには発売しなかった。


なぜならば、市販に移すには信頼性、耐久性が乏しかったのです。


そのテストの場として、当然のことながらサーキットが選ばれたのです。

原点となったモデル

911の原点となった2リッター・モデルは、最初の0シリーズから、Aシリーズ、Bシリーズへと発展。


69年7月まで生産され、"リッターのC/Dシリーズに移行したが、2£最終のBシリーズには、911T(圧縮比を齢におとし、出力はl10鎚)、911E(メカニカル燃料噴射装置つき140ps)、91lS(圧縮比"、メカニカル燃料噴射装置つき、170防)の3つのモデルが含まれていました。


最高速は、Eが2-5㎞/h、Sが225㎞/hだった。


ボディは、ふつうのクーペのほか、67年からは着脱式のルーフをもつタルガ・タイプも登場。


0、A、Bシリーズ合計3万6730台が生産されています。


でもミツオカ 中古車の情報も気になりますね!

クルマの生産

こんにちは。今日も中古車の検索をせっせとしていました^^


クルマを生産しているどの国にも、その国を代表する象徴的なモデルが必ず存在します。


それはいいかえれば、その国のもっ最高の技術力を駆使して作られ、しかも長い歴史と伝統とを感じさせる、ある種の深い味わい(ムード)をもつクルマ、といえるでしょう。


これをスポーツカーだけに限っても、イギリスならアストン・マーチンDB5、西ドイツならポルシェ91ーカレラ、イタリアならフェラーリ365GTB/4などが挙げられます。


だが、歴史の短い日本の自動車・工業においてこれに当てはまるクルマはきわめて少ない。


強いて挙げるならトヨタ2000GTでしょう。

世界のスポーツカーのトップ

こんにちは。今日も中古車情報に役立つお話です。


最初の911の性能は、最高速が2-0㎞/h、0→400mが16・5秒で、それまでの356を大幅に上回るものでした。


エンジンの排気量は、69年8月には、(ボアを4㎜ひろげて)ロリッターへ、さらに、2.4、2.7、3リッターへとひろがった。


75年の3リッター・ターボでは、パワーは260Psに達したし、現在の脇リッター・ターボ・エンジンでは、300Ps/5500rPm、という出力だ。


20年以上も生産がつづけられ、このクルマが基本的なデザイン、主要部品を改造することなしに、その生産期間中に現われた安全規準や、排ガス規制に適合しえたという事実は、最初のデザインがいかに進歩的なものであり、時代を先取りしていたものであるかを物語っています。


しかもその間、常に世界のスポーツカーのトップに君臨しつづけたことは、驚嘆に値する。

量産型の車・・・

911は、ポルシェとして、はじめてのモノコック構造のモデルとなりました。


6気筒エンジンは、シングルOHC、水平対向の1991㏄(80㎜×66㎜)のオーバー・スクエアで圧縮比は㎝。


クランクは8個のメインベアリングで支持され、各バンクー本のカム・シャフトは、複列のローラー・チューンで駆動されていました。


出力は130ps/6100rPm、17・8㎏・m/4200rPm。


ギア・ボックスは、量産型のポルシェとして、はじめての5速が使われました。


サスペンションは、リアがトレーリングAアームと横置きトーション・バー。


フロントは、マクファーソン・ストラットと縦置きトーション・バーとなっていました。


これはもちろん基本的には変わらず、現在までつづいています。


そして、ミツオカ 中古車も人気の車のひとつです。

軍需工場の地位

前回ご紹介した法律は、自動車製造事業の確立を目的とし(一条)その事業を営む者を政府が許可し(二条)、その上その者を、株主、取締役の半数以上、資本の半額以上、議決権の過半数が帝国臣民または帝国法令によって設立された法人に属する(三条)と規定しました。


ここにわたしたちの国の自動車工業は、政府の監督下の許可会社に限定され、国防的見地から準軍需工場の地位が与えられました。


また、中古車の情報は当然のことですが、大正7年制定の軍用自動車補助法は廃止されました。


自動車製造事業法を制定

昭和10年8月閣議で自動車工業法案要綱が決定、公表されました。


それは、


(1)普通自動車の組立または主要部品の製造事業は、これを許可事業とすること。ただし、その数量が一定量に達せざる事業にたいしては、許可を要しない。


(2)前項の爵可をうける者は、株数の過半数が日本の臣民または帝国法人により設立したる法人にして、議決権の過半数が日本臣民に属する株式会社に限ること。


(3)第3項の許可の事業に関しては、産業上、国防上必要な監督規定を設くること。


(4)現存する自動車工業にして第ω項に該当するものについては、本方針決定当時における現存範囲内においてのみ既得の権益を認めて、その事業の遂行を許容し、その後の新設または拡張については、法律施行の際にさかのぼりその権益を容認せざること。


でした。


この要綱は、規模と資格から在日フォード、GMのしめつけにあったことはいうまでもないそうです。


その1は、年間3000台以上に達する自動車製造事業の許可制です。


これで横浜の日本フォード、大阪の日本GMは政府の許可を必要とすることになったが、その既得権益を認め、その後の設備の新設または拡張を否定した。


その2は、許可をうけるものを日本人に限定し、その3は、自動車製造事業を「組立または主要部分品の製造」として主要部分品の輸入を防いだことです。


この要綱をもとにして昭和11年5月前記の自動車製造事業法が制定されました。


ミツオカ 中古車の流通する今では考えられないような事業法ですが、かつてあったことなのです。

自動車工業を確立

旧陸軍は、昭和6年の満州事変以降みずから自動車補助法で育成した軍用トラックを使用したが、数が少ない上に故障が多かった。


旧陸軍は、この国産トラックに対し在日フォード、GM製のフォード、シボレーの量産普及車が性能もよく満州の悪路にもよくたえたため、わたしたちの国の自動車工業がフォード、シボレー級のトラックを量産し、大衆車として国内に普及ないしは仮想戦場とみなされた中国大陸へ輸出し、軍事にあたってそれらを徴収使用する、との構想を抱いた。


しかし、中古車情報を見ると、満州事変以降のわたしたちの国の大陸政策がアメリカとの対立をひきおこしはじめたから、わたしたちの国は、もっとも必要とする軍用トラックを仮想敵国たる在日アメリカ系子会社に依存するという矛盾した立場にたつことになりました。


ここにわたしたちの国、とくに旧陸軍は、早急に国防、産業上からアメリカに依存しない自動車工業を確立する必要にせまられたのです。

自動車製造事業法の成立

中古車情報を見てみると、馬と人からなりたった旧陸軍でも機甲師団、自動車化師団の創設を計画しはじたとのことでした。


そのため彪大な軍用トラック、それをつくる自動車工業の確立を必要とする。


そのため旧陸軍は、アメリカ系のGM、フォードの子会社を排撃し、兵器国産化の大前提にたって陸軍の要求するトラックをつくる日本人の自動車メーカーを育成することを決意した。


これが、有名な自動車製造事業法(昭和11年5月、法三二号)です。


この法律の背景には、当時の旧陸軍がわたしたちの国の自動車工業の後進性をよく認識していた事実があります。